沖縄対話プロジェクトの呼びかけ人・岡田充(たかし)さんが逝去されました。計画していたプロジェクトが一段落した直後でした。これまでプロジェクトの中心を担ってくださった岡田さんを悼み、共同代表の岡本厚氏が追悼文を書きましたので掲載します。
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沖縄対話プロジェクトの呼びかけ人・岡田充(たかし)さんが亡くなった。
元共同通信の記者で、香港支局長、台北支局長、モスクワ支局長、編集委員、論説委員などを歴任、近年まで共同通信の特別論説委員を務めていた。「東洋経済」や「ビジネス・インサイダー」などに執筆していたほか、自ら「両岸通信」を発信していた。ジャーナリストの中のジャーナリスト、ある意味、存在そのものが珍しくなった「古典的なジャーナリスト」のお一人であったと私は思っている。
かつて安保問題で名を馳せた岡田春夫議員(社会党)の次男ということは知っていたが、どういう青年時代を送ったかなどについてはよく知らない。1948年生まれ、まさに「団塊の世代」の一員であるから、権威や権力には楯突き、名誉や金銭には関心のない人であったことは想像できる。考えてみると、私は岡田さんとは、様々な企画の「打ち合わせ」や「取材」で食事をしたことは数限りないが、一献酌み交わすというような付き合いをしたことは一回もないのだ。
もともとは、私が「世界」編集長時代、台湾問題のシンポジウムを開いたことがあり、そのとき取材に来てくれたのが始めであった。シンポの後、会場であった早稲田大学の構内を歩きながら話したことを覚えている。やがてはお互いに信頼しあう関係になり、「世界」に書いていただいたり、様々な活動を一緒に行うことになった。
中国、台湾、香港、日中関係などが、彼のライフワークであり、そこに向けられる視点は、原則を守り、事実を徹底して調べ上げ、かつ大陸、台湾などの知り合いに取材する、妥協のないものであった。そしてそれは、事実においても視点においても曖昧をこととする、現在の日本の政治やメディアに対する舌鋒鋭い批判となって現れた。彼の日中関係、中国情勢の分析は、その後の動きを見ればほぼ正しかったことがわかる。私は彼から、中国、台湾のことについて多くを学ぶことが出来た。
逆に私の「守備範囲」ともいえる日韓関係や沖縄の問題では、私の見方を尊重してくれたと思う。
2019年、安倍政権による対韓経済制裁に反対する声明(「韓国は敵なのか」)にも、2022年、いわゆる「台湾有事」が煽られる中で「『台湾有事』を起こさせない・沖縄対話プロジェクト」を立ち上げた際にも、私が誘い、岡田さんはすぐに名を連ねてくれ、可能な支援を惜しまなかった。(一方、別の活動では、主催者が原則に曖昧な姿勢を示した途端に身を引いた。その意味でも妥協のない人であった)
ここ10年くらいであろうか、ガンによる体調悪化に苦しまれていた。食事をする際も、お粥などを別に注文したり、食べやすいものをご自分で持ってこられるときもあった。しかし、弱音を聞いたことは一回もないし、体調によって分析が曖昧になるようなことは許さなかった。
昨年(2023年)9月、沖縄対話プロジェクトで大陸の2人の識者を招いて第三回目のシンポジウムを那覇で開いたとき、中心的にかかわってくれた。東京での打ち合わせをしたとき、もともと痩せておられたのがさらに痩せられたなと思ったが、那覇行きも、司会も快く引き受けてくれた。当日も見事に司会として采配を振るわれたと思う。シンポは充実したものとなった。
シンポ後の交流会で、多くの参加者たちがこもごも発言したり雑談する姿を、すこし満足げに、穏やかな表情で眺めておられたのを記憶する。
岡田さんの日中関係、両岸への視点が、沖縄対話プロジェクトのある意味で骨格となった。岡田さんの働きに、沖縄対話プロジェクトとして心からの感謝を明らかにするとともに、私個人としても、これまでの20年に及ぶ交情に感謝したいと思う。
ありがとうございました。安らかにお眠りください。
共同代表 岡本厚